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横須賀 / 相模金谷降車場
プロローグ 私の地元、神奈川県横須賀市。横浜方面より帰宅する際に良く通る「金谷」というT字の交差点があります。
![]() 以前にもこんなジオラマを作ったりしている親しみのあるご近所さんです。 JR横須賀線は横須賀駅より先の久里浜までは単線区間となるのですが、 この金谷架道橋から横須賀方面(写真の左側の方向)にちょっと行ったところにかつて駅だった場所があるのです。 それが今回の探訪のテーマである”相模金谷仮降車場”です 1944(昭和19)年4月1日に横須賀〜久里浜間が開通。 翌1945(昭和20)年 4月某日、相模金谷仮乗降場開業。 同年 8月某日、終戦を契機に相模金谷仮乗降場廃止。 わずか4ヵ月の短命の駅。 終戦間際で資料もあまり無い様で、幻の駅とも言われているようです。 その謎が少しでも明らかになればいいなぁと思い調べてきました。 間違いも多々あるかとは思いますが、どうぞご甘受の程を…。 横須賀線の来歴 三浦半島の相模湾側、鎌倉から逗子を経て、東京湾側の横須賀に達し、さらに内陸を通って久里浜へと抜ける横須賀線。 ![]() 地図はGoogleマップさんの画像を借用しております。 その歴史は意外と古く、昨年(2009年)開業120周年を迎えました。東海道線全通も同じく120周年でしたし、 ちょうどお隣の横浜が開港150周年でしたので、いかに早い段階で横須賀線が敷設されたかが分かります。
上の年表の通り、横須賀線は元々軍事目的の色合いの極めて強い路線です。 東海道線の枝線である横須賀線が一早い段階で誕生し、横須賀駅までの複線化や電化、 さらに久里浜駅までの延伸を果たした背景には、軍需都市・横須賀と海軍さんの強い要請があったことは疑うべくもありません。 今では横須賀駅は一日平均6000人程度しか乗降しない駅で、駅前もバスターミナルが広がるだけですっかり寂れてしまっています。 繁華街はすっかり京浜急行線の横須賀中央駅周辺に奪われてしまい、路線名のみに往事の賑わいを感ずることが出来る風です。 横須賀駅より先の単線区間はもとより、逗子駅までが横須賀線と言った感も否めない路線となっております。 ※私はその単線区間に住んでいるわけですが… 余談ですが、戦争中には衣笠駅から武(武山駐屯地)へと延びる路線も計画されていたそうで、現在の県道三崎線や 衣笠十字路から武山方面へ進んだトンネル(衣笠隧道)などは、本来この路線用に掘削されたものだそうです。 今の衣笠十字路周辺のバスターミナルなどの用地も、その路線のための用地買収の名残だそうです。 今でこそ武・林方面は住宅地が開拓されているものの、当時は海軍の武山海兵団があるだけの山林でしたから 戦争が長く続いたら、間違いなく赤字になるような路線が軍需によって作られていたのでしょうね。 金谷に仮降車場が必要とされた理由 横須賀海軍工廠の従業員は3万人以上だったとも言われていますが、その労働力の確保のために多くの宿舎があったようです。 特にこの金谷周辺の衣笠、池上などの地域には、昭和14年〜終戦にかけて海軍工廠の宿舎が多数存在していたそうです。 下の地図で赤く塗った部分が大まかにそれらの施設があった場所ですが、一部の宅地以外は現在学校や市営住宅、公園などになっている場所です。 私も良く通る平作の消防署の周りや池上中学校の辺りにも多くの宿舎が立ち並んでいたようです。 これらの詳細については、こちらのサイト(三浦半島の軍事施設)さんがとても参考になりますので、おすすめいたします。 ![]() 地図はGoogleマップさんの画像を借用しております。 上の地図の7・11マークの辺りより池上中学校方面を望む。 現在も人口密度の高い地域ですが、ここが池上工員寄宿舎や工員養成所であったことを知っている住民は少ないことでしょう。 平作5丁目へのメインストリートで消防署周辺の市営住宅群。 上の地図の7・11マークの辺りより県道27号越しにかつて金谷第二工員寄宿舎があった辺りを望む。 8000〜10000人の工員がこれらの地域に分住していたようで、徒歩や電車で横須賀海軍工廠まで通っていたそうです。 戦争継続が最優先のこの時期、そう離れていない衣笠駅なのに、より近くに金谷駅が開業されたのもこれまた軍需ですね。 とは言え、戦争末期の物資欠乏期に作られた駅は粗末な板張りで、朝夕の通勤時だけ電車が停車し、その時だけ守衛さんがいたようです。 現地にて高低差を感じる 三浦学苑高校の裏手にある現地を早速訪れてみました。下の地図は上の地図の桃色の枠の中を拡大したものです。 赤い枠が衣笠工員寄宿舎のあった場所です。地図にある数字は写真の番号、矢印は写真を撮った方向を示してあります。 ![]() 地図はGoogleマップさんの画像を借用しております。 写真1:線路の築堤を挟んで、向こう側と行き来が出来る高さ1.8m弱の通路です。 ご覧の通り、ちょうどここから衣笠駅までの線路は道路面よりも高い位置(築堤)を通過しています。 写真2:線路東側道路よりホームがあったと思われる付近を撮影。 草で分かりにくいですが、線路の向こう側が盛土になっています。行き来が出来るように枕木が設置されています。 写真3:駅舎若しくはホームへと続く入口だったと思しき路地です。 写真2の盛土部分は現在も保線用の敷地になっているらしく、フェンスに入り口が設けられています。 写真4:写真3の中央に写っているフェンス越しの盛土部分です。線路とフェンスを越えた向こう側の道路は写真2を撮った場所です。 恐らく往時はこの部分を中心として簡素なホームが展開されていたのだと思われます。左側は深い側溝になっています。 写真5:背後の丘(西側)より写真1や写真4の撮影場所を望みました。 ここより右方面(衣笠寄り)には築堤による斜面が続き、ホーム用地となる敷地に余裕がなくなっています。 写真6:同じく背後の丘より写真2の撮影場所を望みました。側溝が後述する擁壁の近くまで伸びています。 写真7:横須賀トンネル口上より金谷駅方面を撮影。現地は両側から斜面の迫るいわゆる「谷戸」という地形です。 右奥に擁壁があるように斜面が迫っていてホームとして可能な用地が少ない印象を受けます。 写真8:擁壁は先程の盛土の近くまで迫っています。擁壁のすぐ裏には斜面が迫っています。 こうして現場周辺を見てみると、ホームがあったという実感と共に、ホームとして利用できる敷地の少なさに気付きます。 航空写真で分かること 下の写真は終戦直後の1946年2月22日にアメリカ軍が撮影した航空写真です。中央小丘のやや左下が駅と思しき場所です。 ![]() 地図は国土地理院・国土変遷アーカイブの画像を借用しております。 上の地図と比較すると分かりやすいのですが、衣笠工員寄宿舎がそのまま残っているのがよく分かります。 ホームらしき痕跡も見受けられます。また、ホーム裏の深い側溝も黒く影として見受けられます。 道路の位置もあまり変わっていませんので、駅の辺りの線路東(右)側の道路が小丘沿いに折れる所を基点に比較すると良さそうです。 こちらは画像が悪く縮尺も違うので見難いかと思いますが、1954年の航空写真です。 ![]() 写真の範囲が南よりで駅の辺りの線路東(右)側の道路が小丘沿いに折れる所が一番上に位置しています。 やはりホーム若しくはホーム跡らしき痕跡は認められます。 そして現在の航空写真です。小丘がマンションになっていますが、道路が折れる場所や側溝の位置は変わりません。 ![]() 地図はGoogleマップさんの画像を借用しております。 このように半世紀以上を経ても、道筋や地形があまり変わらないところに私の城(縄張り)好きなところがあるのだと再認識。 ホームがあった場所 これらの下調べを踏まえて、ホームがあった場所を推測できる地図を作りました。 ![]() 下の地図はGoogleマップさんの画像を借用しております。 擁壁がいつからあるのかが定かではないのですが、戦前からあるとすると、 灰色や茶色の部分には簡素なホームがあった場所とは考え難いです。 黒色の側溝も終戦直後の写真に写っていることからも当時から存在していたと考えて妥当だと思われます。 このことより赤色ないしは桃色の部分が私の考えるホームのあった場所です。 特に赤色部分については、間違いなくこの部分を含んでいたことを実感できる部分です。 ただ疑問は尽きません。 この赤い部分だけで見ると、全長にして60m程度なのです。20m級電車3両がしか停まれない長さです。 桃色の部分を含めても85m程度で4両程度しか停まれません。 戦前の横須賀線電車の標準編成は、 基本編成:モハ32+サハ48+サロハ66+モハ32 付属編成:クハ47+サロ45+モハ32 だったそうなので、各々の編成ならば何とか停まれそうですが・・・。 また、今では約15分に一本の割合で横須賀〜衣笠間を電車が走っていますが、果たして当時はどうだったのでしょう。 1両の定員が120人、乗車率250%の寿司詰め状態と仮定すると、上の1編成で900人〜1200人程度の輸送が可能。 これが1時間に4本とすると、3600人〜4800人程度の工員が利用できたと言うことでしょうか。 しかし、仮定の上にいくら仮定を乗せても答えは出てきませんね。 エピローグ 「幻の相模金谷駅」について、今の私にはこの程度のことしか調べることが出来ませんでした。 しかし、ご近所にこんな場所があるというのも何かの縁。 今後もライフワークとして図書館などで郷土史の文献などを調べたいと思っております。 Copyright(C) 1998-2024 のなか通信 All Rights Reserved |