沼田城址(群馬県)


概要 
沼田城を築いたのは、沼田顕泰といわれている。天文二十一年(1552年)関東管領上杉憲政が後北条氏に追われて越後へ逃がれ沼田城は北条氏康の属城となる。永禄三年(1560)、越後に逃れた上杉憲政に応じた上杉謙信は沼田へ出馬し、沼田顕泰を降伏させて上杉氏の属城となる。後年北条・武田の同盟が破れ、上杉・北条の同盟が成るが、沼田氏は跡継ぎに恵まれず滅亡し、城代藤田信吉の預かるところとなり、武田方に通じた信吉によって武田氏の武将真田昌幸に明け渡された。武田氏が滅亡すると、織田信長の武将滝川一益が沼田城に入ったが、間もなく本能寺の変が起こり、一益は城を昌幸に返して帰京した。城はその後真田氏が治めていたが、秀吉の小田原攻めなど歴史上に度々クローズアップされる。それもこれも信州・越後・下野・武蔵のいずれにも通ずるこの地の持つ戦略的な価値のためであろう。


私見 
かなり公園化が進んでおり、市民の憩いの場になっている。城跡としてはかなり失われている部分があるように感じるが、その規模は感じることができる。かつての騒乱の地は今はのどかな雰囲気すらする。